昭和46年12月31日 朝の御理解
中村良一
御理解 第48節
「わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。」
ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれというところ。いよいよの時に、うろたえん。いわゆる、信心する者は、これから先、どのような事が起こってきても、驚いてはならんぞと仰せられますけれども。驚かずにはおられない。うろたえなければおられないと。それが、当たり前ぐらいですけれども。信心をさせて頂いておると、うろたえんで済む、驚かんで済むおかげの受けられるような信心を、常日頃しとかなければいけない。でないと、信心頂いておる値打ちがない訳です。ここでは、例えば、子供が病気という時でも、子供が言うことを聞かん時に、もう知らんぞというような気になるね、子供でも。そげん言うことを聞かんごたるなら、もうほっとこうと、もうかもうたっちゃ同じ事だから、もうほっとくより他にない。そういうような心持と仰る、そういう気持ちで、ほっておけとは仰ってはない。そういう気持ちで、信心してやれ、おかげが受けられると。なかなか、このままよという心。ほっとくような心。
先日、どなたでしたでしょうか、あぁ、そうそう、佐田さんところの、お爺ちゃんが、この頃、ずっと休んでおられます。ご主人の弟さんが、お医者さんですから。久大に勤めておられます。それで、あちらに、もうそれこそ、至れり尽くせりの看護の中に、お医者さんにかかられた訳です。これまで、佐田さん一家、例えば、佐田恭三さんをはじめ、お母さん、それから奥さんの恵美子さん。病院には行ってはおるけれども、一つも慌てることもなからなければ、騒ぐこともない。もうただ、思うことは、神様のこのような、端々に至るまで、このような神様の働きを受けておるという事の方が有難い。東京から、娘さんが見えておられた、看護に。もちろん、お医者さんであるところのていぞうさんと申します。ていぞうさん達夫婦も、一生懸命の看護をなさいます。ところがその、久留米の方から、第一お母さんにしろ、その恭三さんにしろ、奥さんの恵美子さんにしろ、一つも驚かない訳です。ただ、有難い、おかげおかげばっかりしか言わん。ですから、信心の薄い者から見ると、親が、こげんなるとに、例えば、ほんなら、お婆ちゃんから言うと、主人がこんなに病気しておるのに、そんなに落ち着いておられるだろうかというて、大変そのふうが悪かったという話を聞いた事があるけれどもね。退院して帰られる時でも、そうであった。もう、神様にお任せ切っての事であった。ですから、そこには不安がない。不安がないから、私は、ままよという心になれると思うです。不安が、全然ない訳ではありますまいけれども。日々お取次を頂いての事であるから。なるほど、同じ兄弟でもです。親の事を、例えば、思わない者はありません。けどその、思い方が違う。信心のある子とない子との、親に対する思い方が違う。常日頃、信心のおかげを受けて、しかも、このように、間違いのないおかげを下さる神様であるから、この子とても、そういう間違いのない働きの中に起こっておる事であり、あっておるんだと信じられるところに、そういう落ち着いとっていいか。参る時には、まぁだから、ちっと心配なかったっちゃ心配しよる風せんといかんごたる風ですね。信心のない人達は。まぁどうしてああ冷たい、どうした冷たい仕打ちじゃろうかというふうに見える訳なんです。そうじゃない、反対の事なんだけれども、神様の働きを信じきって、安心しておれる。そこに、日頃の信心が、もの言うておる訳ですけれども。信心のない者は、そのようにしか見えないくらいにおかげを受けておる。それとてもです、ほんなら、例えば、みなさんがご承知の通り、まぁ熱烈という言葉が、一番適切でしょうね。一家を挙げて、もうそれこそ、熱烈な信心をなさっておられますからこそ、そういう時に、いわゆる、慌てんですむどころではない、ままよという心。そういう心が受けられる訳です。
私、昨日、ここで、あるお届けをさせて頂いておりましたら。赤不動ということを頂いた。真っ赤なお不動さん、赤不動。なかなか熱心に、信心が出きられます。ところが、ある問題で、非常に悩んでおられる。私は、その事を頂いて思ったんですけれども。普通、いうならまぁ、赤不動に対する、黒不動というふうに頂いたんですね。苦労ということは、もちろん、まぁ修行です。一生懸命の修行させて貰う。いわゆる、信心修行です。一生懸命の信心修行させて頂く所から、いわゆる、信じて疑わない。どのような場合でも、不動の信心、信念というものが培われる。その事が、もちろん、だから、おかげの元になるという事になりましょう。ですから、私共も、そういう、段々、おかげを頂いて来とる訳ですけれども。はぁ、この、例えば苦労ほど、そういう日頃の修行によって、不動の精神が生まれた。それに合わせてです、赤不動のおかげを頂いたら素晴らしい事だろうなと思うた。黒不動に対する赤不動。信心修行によって、生れてくるところの確信というか、信念というものが、段々、確固たるものになってくる。今日の御理解から言うと、どのような事が、よし、突発的に起こっても、そこに、ままよという、どん腹が据わるようなおかげ。赤不動というのは、どういうふうな事かと。いわゆるその、かっかつ燃えてくる、かっかしてくる。また、火事のお知らせなんかは、争いと仰る。そういう、例えば、争わなければならないような、しかも、かっかつ来るようななかです。それこそ、火の中にあるような状態。そういう所をです、冷たいというか、冷静というか、感情を出さずに、じっと、それこそ、火の中に座っておるような、私は、辛抱をすることだと思うた。恋は盲目などと言いますけれども。例えば、そういう、恋愛感情なんかでもそうです。もう、火が着いた様になっとる。だから、覚えんごつなっておる訳です。そういう時にでもです、いわば、冷静にですね、それを処置していけれるというか、裁いていけれるほどしの心。
私は、昔、親鸞という映画を、あれは、中村錦之助演ずるところの映画でした。玉姫との出会い、それから、恋愛、それでもまぁだ、仏弟子としての修行中。しかも、現在の、その当時の仏教では、いわゆる、女人禁制と言うほどの、厳しいそれをしておる時に、玉姫を思う心が起きて、いわゆる、煩悩の火に焼かれる様な苦しみの時に、自分の下の弟子に、自分を叩いてくれと言うて、杖で叩かせる場面があります。いわゆる、情熱に燃える。それを冷静にするために、それを抑えるために、抑制するために。それを、普通から考えますと。その後に置いて、そういう人間的な悩みというようなもの、そういう煩悩といった様なものを堪えることは、信心ではないと悟ったのですけれども。その悟りの前にです、そういう苦しみがありますけれども。私は、その、まぁ一つ先に、いわゆる、親鸞がそこで苦しんだ。私は、今日の御理解で言うと、もうそれこそ、赤不動のね、私は、信念というものが、そこがもし、貫かれたら、赤不動のおかげが受けられると思うです。彼女に会いたい。けれども、それを、自分で、身を叩いてでも、裂いてでも、そういう心を抑制するというか、押さえる心というか、なかなか出来る事じゃない。生身を持って、それは、実感する事ですけれども。やはり、超越するということは、そういう事なんだ。その後においての、親鸞の場合は、その妻帯もまた、女に接する事もまた、あるがままに、なるがままにといった様な、実に自由無碍な心の状態というものが開かれてくる。けれども、それではやはり、私は、最近、申しておりますように、確かにそうなんだ。それを神様が、仏様が、責めなさるような事はないのだけれども。それで、罰を与えなさるような事はないのだけれども。その仏を信ずる。私共というのは、そう神様を信ずる。だから、そこに、一つの悟りが開かれ、そういう神様を信ずる力は生まれましょうけれども。神様から信じられる働きにはなっていないのが、親鸞宗だと思うですね。教祖様の場合は、そこんところが、いわば、超越された。
もう、二十年も前の話でしたかね。私は、一週間ほど苦しんだ事があった。もう寝らんなり苦しんだ事があった。こういう事を集合するという事は、信心ではないとも思った。けれども、私の心は、さっぱりしなかった。もう、一週間目には、寝ながら、かかっておる着物が、人間に見えるごとなった。そんな事がありました。その時にです。一週間目に開けたもの。それはね、どうして、このくらいな事に、こげん苦しんだであろうか。どうして、このような事で、夜も眠られん様に苦しんだだろうかと思うばっかりでした。翻然としたものとでも申しましょうか。
その当時に、例えば頂いた。犬ころが、もう、ごろごろ、転がって苦しんでおる。シラミとかダニとかというものが着いてる訳です。というて、自分では掻けんのです。それで、地べたに、いわゆる、ごろごろ転がって苦しんでおる。その苦しんでおる状態が、ちょうど、私が、一週間、イモやらで苦しんだというのは、その事だったと思う。ところが、人間が、まぁ通り合わせた。まぁ犬の好きな人が通り合わせた。あら、この犬は、何かおるとじゃがというて、その犬を抱いて、はぁダニが食ういついとるけん、こりゃ、痒いかったろ、苦しかったろと言うて、ちょっと捕ってやった。もうそれこそ、嘘のように楽になった。私の、そういう、例えば、まぁいうなら、純信心とでも、純信仰とでも申しますか。そういうところに立たせて頂いての修行であります。その苦しんでおる姿をご覧になって、神様が、きちっと取って下さったら、もう、嘘のように、どうしてこんな事が、こんなに苦しかっただろうかと思うほどしに楽になった、以来。私は、赤不動というのはね、そういう事だと思う。良薬身を焦がすような思い。または、腹の立つ時に、かっかつ来る。いわゆる、争う心。そういう、私は、普通の信心修行をさせて頂いておる。一生懸命、お参りもさせて貰っておる。努めてもおる、奉仕もさせて頂いておる。これが信心修行と思う事は、それは、それこそ、水の行でも火の行でも、いとわんというような、信心修行はしておるけれども。日常生活の上に於いてです。それこそ、燃える様な心の状態の時がある。かっかつ来るような時がある。
だからもう、それは、人間だからというてです。当たり前の事にしたら、私は、赤不動の徳は受けられないと思う。私は、昨日そのね、黒不動とか、赤不動とかという言葉もないくらいでしょうけれども。これはどこまでも御理解です。黒不動というのは、ただ、普通、皆さんがなさっておられる信心修行である。ですから、まぁ赤不動というのは、ほんなら、家庭の上に於いての、修行と言うても良いでしょう。信心修行じゃなくてから、いわゆる、家業の行と仰る様な行の中にです。または、表行よりも信行と仰せられる、その心行の中に、私は、その赤不動的信念というか、力というか、そういうものが与えられると思うのです。それとこれとが、一つに頂けれる様になったら、大した事だろうと、私は思います。それほどの力を受ける。
だから、信心修行は、沢山する人はありますけれども。それは、神様を信じて疑わないという心だけ、まぁ例えて言うと。けれどもね、そこに一つ、超越した体験というか、超越した、普通で言うならばです。人間的ではない様にも思われる様な修行に取り組んで、例えば、それが、もし成就した暁にはです。それには、増した違った赤不動的、不動の信念が頂けるのだなと。昨日、そう思わせて頂いた。私共は、これから、色々ある。その黒不動、いわゆる信心修行から生まれてくる不動の精神、不動の信念。同時に、只今申しますような、それこそ、火の中に座っておるといった様なこと。そういう所を、私は、頂かせて頂いて、いわゆる、赤と黒とが一つになるほどしの信心修業をです、させて頂いておって、初めて、これは、本当に人情というものは、自分にはもう無いのだろうかと思われるくらいな、その場に臨んだ時に、動かんですむ、一つの信念、確固たるもの。それは、言うことを聞かぬ時にほっておく、いわゆる、ままよと思う心。そういう心になってと、ここでは仰っておられますけれども。例えば、赤不動と黒不動が、一つになって生れてくる確信といった様なものは、もうそんなもんじゃない。どんな事が、例えば、よし起こってもです。ほんなら、言うことを聞かぬ時に、ほっておくような心に、わざわざならなくてもです。もう、そのままが、それこそ、微動だもせんというような心の状態。思い替えといった様なものではない。自分でも、不思議なくらいな力が、そこに感じられる。それは、もちろん、力ですから、それが、おかげにならん筈もない。
私はあの、去年の、幹三郎の病気、そしてあの、手術という、あの前後の事から思ってみてですね。私は、本当に、そういうおかげを受けておったなぁと思うです。ここでは、例えば、言うことを聞かん時には、ほっておく様な心持だはなかった。けれども、それよりも、もっともっとすっきりした、ままよという、いわば、腹であった。みなさんが、毎日、毎日、詰めかけて、沢山な精勤をして下さる時に、私は、ここに座っておって、もう、他の事を、一生懸命に願っておったですかね、事実。はぁ皆さんが、一生懸命お取次に、今、お取次させて貰いますもん。けども、みなさんが、一生懸命、御祈念なさっておる時に、私は、他の、例えば難儀な問題のお届けがあっとる。その事を、一生懸命、願っておった。わざわざという訳じゃない。私の心の中に、せんもんが強かったです。こりゃ本当に事実なんですから。まるきり人ごとの様な気持で、お取次させて頂きました、自分の息子の事ですけど。死ぬるか生きるか、いや、もう九十九パーセントは駄目だと言われる様な、息子の病気を、そこに感じながらもです。本当にこれは、不思議な事になってきたもんだな、自分の心の状態というものがね、それこそ、そう、他の肉親の者が見たら、佐田さんじゃないけれども。どうした冷たいお父さんじゃろうかと言うごとあったろうと思います。私の心の状態を、もし、その時、みなさんに発表したらね。
しかし、そういうね、心が、段々、頂けてくるようになる。そこで私が思うんですけれどもね。そんなら、赤不動、黒不動と言うような事まで、今日、申しましたが。その黒不動だけでもです。私は、本気でなさっておらなければ、いよいよの時に、慌てると思うですね。もう、それこそ、徳を受ける、力を受ける、いわば、チャンスなのですからね。私共が、びっくりする様な事の起きてあるということは。例えば、難儀な問題が、そこに突発的に起きてきたということは、いよいよ、力が受けられる機会が与えられたのですからね。その時に、それを、どっこいと受ける事が出来ずに、よろよろしていたら、さぁ、通り抜けたにしても、おかげを頂いたに致しましても、力にゃなりません。そこんところを、日頃の信心修行にもの言わせて、どっこいと、こう受けられるだけの信心をです、頂かせて頂いたら、有難い。ためにはです、これは、みなさん、体験がありましょう。朝参りなんかでも、しっかり出来ておる時にはです。不思議に心配がありません。不安がありません。よし起こっても、何かがあっても驚きません。けれども、無信心になっておる時に起きて参りますと、もうそれこそ、うろたえておる自分に、びっくりするぐらいに、うろたえております。信心が抜けておる時。そういう意味でもです、私どもは、信心修行ね。そして初めて、いよいよの時に、ままよと言うような心も頂けれると思うのです。本当言うたら、平穏無事というような時に、一番おかげを受けておる時に、有難い有難いと言っておるのは、そらまぁ、誰だって、有難い有難いと言います。けれども、そこに本当に、この身に感じる苦労と言うか。心に感ずる苦労の時にです。それを、いわば、熱いも冷たいも感じんほどしの心の状態こそ、信心頂いておる者の特権と言うても良いくらいです。その特権を、凝視し、無視しては、信心頂いておる、だから、値打ちがないという事になります。ただ、ここんところが、ままよと思うて、ほっとく様なという心だけでは、それは横着でしょう。そういう心で、信心してやるという所が大事なのです。どうかなるがと言うて、神様に心を向けんといった様な事は、余りもの信心だと思う。そういう心で、信心してやれ、おかげは受けられると教えておられますです。それに、今日は、私が、昨日頂きました、これは、実際問題ですか。その内容が、お話し出来ると、もっと素晴らしく、実感的に、皆さん分かられると思いますけれどもね。それを、私は、まぁ例えて、親鸞聖人の、修行中の問題を取りました。いわゆる、赤不動であります。これに黒不動、いうなら、赤不動が伴うなら、こらもっと、いよいよ、素晴らしい事になってくると思いますね。どうぞ。